アマチュア無線今昔

大正時代とアマチュア無線

 日本で最初にアマチュア無線による交信が成立したのは大正14年(1925年)秋、神戸市本山通り(今の東灘区)の笠原功一さん(JFMTのち3AA、JXIX、J3DD,J1EZ、J2GR、JA1HAM)と大阪、此花区の梶井謙一さん(JAZZのち3AZ、J3CC、JA1FG)とが、神戸・大阪間約20kmの距離を300m波長で電信による交信に成功したのがその歴史の始まりとなりました。
 東京でも同じ頃、個人的な実験を行う人が居てこれが電波のリレーによってグループに発展していきました。このグループが用いた波長は最初は80mでしたが後に42mあたりに変わりました。
大阪と東京のグループは、お互いの存在を知らずに、おのおの異なった波長でグループ内での通信に終始していましたが、東京のある局が試みに波長を短くずらしてみると思いがけず関西のグループを発見してこの2者間の交信が成立しました。時は大正15年3月5日のことでした。 【この詳細は・・・】

 やがて昭和を迎える「大正」とはどんな時代だったのでしょうか。明治の二つの戦争を経て、欧米列強間の緊張が緩み、国際協調気運の高まりとともに欧米の自由主義、民主主義思想の波が日本に伝わるようになりました。
国内的にも資本主義の発展にともなって、知的職業など専門家的な職業活動が目立ち、一方無産階級が増加しました。また、さまざまな立場から、政治的、市民的な要求が出されるようになり欧米の自由主義、民主主義思想への関心が高まるとともに政治面では、言論・集会・結社の自由に基づき、普通選挙制度の実現が求められ、複雑な経過をたどった結果民主主義の原点ともいえる選挙制度が大正14年に実現することになりました。
 まさにアマチュア無線の発祥の原点は、この時代背景にあり国家主義的な教育から解放され、自由教育、大学の自治の確立、などの議論が盛んに行われたことも無縁ではないようです。
こうした動きを、大正デモクラシーと呼んでいますが、実際は掲げられた改革はどれも成就しませんでしたがアマチュア無線の動きだけはこれに反し着実に成果をあげていたのかも知れません。
そしてアマチュア無線にも受難の時代・・国家主義的な波に押し流される昭和に移ります。

 ラジオ少年という言葉が団塊の世代で好まれていますが、日本でラジオ放送が始まったのは1925年、正にアマチュア無線の原点がスタートした大正14年に同じくするのは偶然ではありません。
 この年3月1日に東京放送局、現在のNHK東京放送局がラジオの試験放送を開始しました。アメリカに遅れること5年、東京芝浦からの第一声でしたが、当時の受信機(ラジオ)台数はわずか約5千台でしたが、その年の9月には7万5千台、翌年には20万代に増えました。電波を使ったメディアの偉大さに興味を覚えた人が多く出たのは必然的現象でした。
当時はほとんどが「鉱石ラジオ」を使っていたのですが、理由は簡単で当時真空管1本が、お米20sくらいの値段と同じだったことがあります。ラジオを聞くだけでも逓信省の許可を必要とした時代でした。正式にラジオ放送電波が出たのはその年の6月で、今の放送博物館のある東京愛宕山から送信され、大阪も6月から放送が始まりました。このNHKが生まれる前夜の話しはとても興味深いものですから別の機会で取り上げたいと思います。

 さて、鉱石ラジオで放送を聞くだけで逓信省(郵政省、総務省)の許可が要る時代に、電波を出すことを思いつく人たちとは一体どんな人だったのでしょうか。大正デモクラシーの言葉もあるように自由主義、民主主義思想の中で培われた青年の情熱は新しい時代の幕開け・・電波に限りないロマンと情熱をかき立てられたことは間違いありません。
 このロマンチストでもあり探求家であった先人達の意欲には未知への限りない探求心が見受けられ、夢をかき立てられる思いがあったのは容易に想像できます。
 この時代、関西と東京のそれぞれの同好の志士が合流してアマチュア無線連盟(JARL)を結成してから、アマチュア無線のグループ拡大は急速に進みました。
 ただ真空管1本が米20sの値段とあっては、最大の関門は無線の実験には相当な資金を擁し、経済的な関所がたかくとても庶民に手が届くものでなかったことは事実です。アマチュア無線という概念が日本に無い時代にしかもようやく商業放送が始まった時代に、私設の無線局で電波を発射することを決断したのは、それに値するしかるべき裏付けが有ったといってももうお叱りは受けないでしょう。

 このように日本の主管庁が知らない間に世界中を駆けめぐった日本のアマチュア無線連盟結成のニュースは瞬く間に広がりJARL結成の知らせは、アメリカの無線雑誌として著名な「QST」誌8月号にニュースとして取り上げられ、それを輸入していた逓信省はそれによってこの事実を知り驚きました。
 「日本にはまだアマチュア無線というものを許していないのに、いつの間にかJARLという組織が結成されて、実際に電波を使って世界に宣言している。」役所のメンツは総つぶれで、今なら相当な処分があってしかるべき事態でした。
 当時の常識からすれば異質の文化が突然導入された驚きは、逓信省内部でも相当なものだったようで、この時になって初めてアマチュア無線という文化に触れた逓信省はその後一応の対応を図り、私設実験局を設け門戸を開きましたが、アマチュア無線という定義でこれらを正式に認知したのは昭和25年(1950年)に電波法3法が公布されたときで、この間実に25年の歳月を要しました。
 それまでのアマチュア局は私設無線実験局であり、既設の無線局の範疇に無理矢理このアマチュア無線という異質の文化にボジションを与えたようなものであったかも知れません。ここに大正のよき時代があり、法を司る役所も、法を無視して突き進む若者もある意味で来るべき未来への幕開けをそれぞれの立場で夢見ていたのかも知れません。
 このQSTの記事をみたことによって、法律を越えた運用当事者の谷川、笠原さん達はに大阪逓信局に相次いで出頭を命じられた事情聴取されています。しかし当局は時代の流れを察知して、その10月には密かに短波実験局出願に対する通達をだしてその基準を設けました。この時名乗りを上げたのは東西5名ほどで実験局の出願を行っています。
 その結果当局は、1927(昭和2)年3月1日に、1926(大正15)年8月4日に遡って東京逓信局に出されていたJLYB、有坂磐雄氏、JLZB楠本哲英氏の2局に免許を下ろしました。許可された使用周波数は38mに限定されていました。
 さて日本最初のアマチュア無線家はといえば、免許の日付から言うと、日本最初の素人無線実験局となった有坂氏がJARL盟員でもあり第一号かもしれませんが、当時現役の海軍大尉であったこともあり、その頃JARLの人たちは有坂氏のJLYBをアマチュア局として認めていなかったような記述もあります。一方のJLZB楠本氏は、逓信省の役人で、監視のための局だったことが明らかにされているのでアマチュア局とは認められていません。そこで日本で初めてのアマチュア無線家と言えば昭和2年9月10日に我が国初めて個人局免許として告示された7人の筆頭となったをJXAX草間貫吉さんとなっています。
 
ただこの申請に係る「願書」である文書は、滑稽ともいえる煩雑な書類で、これを求められる時代背景とこれを突き破る情熱を考えると興味本位では語れない時代の流れを感じます。

 このような背景で誕生したアマチュア無線愛好家の集団JARLは、今日までそれぞれの時代を生き抜き我々アマチュア無線家意に大きな功績を残してきました。
 アマチュア無線の歴史と現状を考えるときこのJARLの動きを抜きに語れない部分が多く最近では時として議論の矢面に立つ場面に遭遇します。

 昭和という時代

 昭和2年11月のワシントン条約にそって翌年から我が国も波長から周波数表示にかわりました。この条約には実験局のコールサインは国別識別表示のあとに数字を入れることになり、昭和3年10月19日から草間さんのJXAXがJ3CBに変わったようにすべての実験局がこのスタイルに統合されました。
この時代の日本のエリアは9つに分かれており、「J1・関東、静岡」「J2・東海、北陸と長野」「J3・近畿と四国高知、徳島」「J4・中国、四国愛媛、香川」「J5・九州」「J6・東北、新潟」「J7・北海道」「J8朝鮮半島」「J9・台湾」
となっています。
 
 願書を出し受験することによって実験局への道がつけられた訳ですが実際は当局の審査は厳しく、当局の増やしたくないという理由で願書の段階で却下されることが多くありました。要するに申請人の履歴を重んじる姿勢を当局が貫いたことで多くのアンカバーと呼ばれる局が誕生しました。
 アマチュアの中にはアンカバーを違法局とは呼ばず、あくまでアンダー、カバーと呼ぶのはアンカバーが居たから現在に電子立国日本があったからだと信じて疑わないことがあり、アマチュア無線が法律を守らないというより守っていては何も出来ないことを良くしっているからに他なりません。
この説明を誤解を招かずにすることは非常に難しいのですが、世の中法律さえあればそしてこれを守れば国民が快適な生活がおくれるか保証がないのと同じで、細かい約束事を守ると現実的にアマチュア無線は違反者を作り出すというのが現状です。
この矛盾を解決しないまま80年間を過ごしてきたのですからアマチュア無線家のお上に弱い構図がいつの間にかできあがってきたのではないかと感じます。

 激動の昭和の言葉がありますが、昭和12年の7月7日に起こった盧溝橋事件に端を発したシナ事変はその後の日本の暗雲を観る事件でしたが、アマチュア無線にとってもその役割は戦時色一色のなかに埋没することになりました。有志で結成された愛国無線通信隊は軍司令部の指示で国防無線隊に改称させられるなどとても大きな成約の中にはいりとても自由を謳歌する時代にはなりませんでした。
むしろアマチュア無線家は重宝され軍属として徴用され無線技術を主たる業務に就きました。
 それでも昭和12年12月20日には、満州国アマチュア無線連盟(MARL)が結成され、昭和13年にはIARUに認知されています。

 昭和13年の国家総動員法は色々なものが統制品となり外貨節約もあり無線部品は入手が困難になりました。そして昭和16年になると時代は緊迫しアマチュア無線に対する当局の弾圧は一層厳しさを増しました。昭和16年12月8日の開戦と同時送信を禁止され13日には受信も禁じられたアマチュア無線機には封印がなされ長い眠りにつくことになりました。

 アマチュア無線再開
昭和20年8月15日敗戦の日を迎えました。戦争勃発によって禁止されたアマチュア無線は戦争が終われば再開されるというのが通常でしょうが、この戦争に敗れポツダム宣言の受諾によって日本の統治は連合軍総司令部(GHQ)に委ねられました。
 この日から多くのアマチュアはあらゆる手を使いGHQに近づきアマチュア無線再開を模索しました。一方戦後何時の頃からと定かではありませんが昭和22年にはアマチュアのレジスタンス運動とばかりアンカバが増えだし、「進駐軍以外のHAMの送信は許可されていません。早まると日本のHAMに不利益になります・・」と当時のJARLNEWSは号外で呼びかけています。GHQもアンカバには不法無線施設探査を強化するよう日本政府に指示したが日本に駐留する米軍ハムはFar East Amateur Radio Leagueという組織を持っており、アンカバ局との交信にも応じる局もありビュローのQSLを渡したりの交換があったようだ。このあたりは実にアマチュア的な発想であり、アマチュア文化の側面をあらわしているようです。
このアンカバの記録は戦後アマチュア無線を再開するまでの間、その例にいとまはないが、進駐軍の放出というか横流しの電子部分が神田付近のジャンク屋に出回りその後秋葉原のラジオデパートなどアマチュアのお馴染みになったことから観て足繁く運ぶマニアの姿が想像出来ます。
その頃高価な真空管やパーツを手に入れ送信機や受信機を作れば当然電波を発射しなければならず、その時点で無許可の無線局となり当時のアマチュア無線家で違法行為をしていないという人が皆無に近かったというのが実際の姿でした。

昭和25年6月に電波3法が施行され、この6月1日を記念して今の「電波の日」が設けられました。この電波法は明確にアマチュア無線局を掲げ、無線従事者としてもアマチュア局だけを操作できる資格を設けるなど一応アマチュア無線制度がとりいれられました。大正末初めてアマチュア無線による交信が成ってから実に1/4世紀を経たわけですが、連合軍総司令部はアマチュア無線の許可を与えませんでした。
この頃の潜在的な愛好家は3千人に及び当然ながら不法に電波を出すものも現れたが、同時に再開を見越してせめて無線従事者の資格だけでも取得したいと願いあらゆる手段を講じた記録が残っています。

法律が出来たものの絵に描いた餅のような電波3法に定められたアマチュア無線の再開は一向に許可されずいらいらした時間のなかでとにかく無線従事者の試験だけでも実施してほいと要望しました。これは有資格者を増やせば当然無線局の許可を与えずにはおれないだろうという思惑がありました。

昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約によって日本はようやく独立国として認知され、同時に多くのスポーツ団体が国際社会に復帰しました。アマチュア無線もこれに合わせて再開と思われましたが実施されるのは国家試験だけでまだ開局に関する回答はありませんでした。
余りにも長いお預け状態にごうを煮やした者や、失望した人たちは目標を見失いアンカバ活動に戦術を変えてしなった局を多く出しました。

昭和26年6月26,27日両日第1回の試験が行われました。第1級、第2級の試験でしたが当時の2級は50Mhz以上と7mhz以下の電話のみでしたから電気通信術はありませんでした。昭和39年初級受験組の小生から観てこの頃の試験はそう難しいものでないことが判ります。国家試験の変遷を観てもアマチュア無線の推移をむることができ興味深いものです。
さて、多くの努力が報い昭和27年に30局に予備免許が与えられることになりました。それまで連合軍の管理の基にあった電波管理委員会は8月から発足した郵政省電波監理局に権限が委譲され日本固有の管理体制のスタートとなりました。

団塊の世代の筆者は神戸空襲で大きな犠牲者を出した軍需工場にちかい家から疎開して神戸の山に手に移って生まれたわけですが、記憶の片隅にMPのヘルメット姿の米兵やかまぼこ兵舎の記憶がありますが、進駐軍という言葉に「なにそれ?」と若者から笑われる年代になり、歴史を尊重しなくても生きていけることはすべての価値観を評価基準が変わる時代というのでしょうか。
生きることに必死の時代にアマチュア無線も無いだろうと思われるかも知れませんが、この不自由な時代だからこそ夢を増幅させるには十分な時代でありましたが、今はアマチュア無線が変わっても当たり前なことでしょう。

再開後のアマチュア無線は、めざましい活躍それまでの封印を解かれた水を得た魚のようにおよぎまわりました。昭和30年代の前半には早くも神戸の桑垣さん(JA3RF)による7Mhzによるモービルによる日本一周や国際地球観測年に関する要請など新しい技術に挑戦が始まり話題を集めました。
昭和32年突然打ち上げられたソ連の人工衛星スプートニク1号の20及び40Mhzのい電波を受信したとことも記録に残ります。
その翌年に色々議論が重ねられた結果、「電波法の一部を改正する法律案」が国会を通り5月6日から施行されました。ある意味日本のアマチュア無線が変貌する戦後最初の記念すべき日となりました。

この電波法の改正のよって2級アマチュアが新旧2種類が存在することになりました。JARLは旧2級をそのまま新2級に移行するように求めましたが認められませんでした。この時JARLは申請方式の効率化をもとめた級別総合免許方式などを求めているが実現に至っていません。この頃からすでにアマチュア局のほとんどを占めていた2級局は3.5と7Mhzにひしめいて50Mhz以上の周波数仕様条件を28Mhz以上とするように要望しています。
アマチュア人口は戦前は24〜29歳がピークでしたが、戦後は17歳〜23歳にピークが移行しており高校から大学生あたりの科学技術の興味が大きいことが伺えます。

「空と海の間に」というフランス映画はアマチュア無線の社会貢献とその魅力を世界中に広めこの映画に魅了されアマチュア無線の誇りを語りつく多くの人をだしたのもこの頃です。