JARLって何?


"We have the honor of informing that we amateurs in Japan have organized today the Japanese Amateur Radio League. QST to all station."
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 1926(大正15)年6月12日(通説となっているが、IARUカレンダーでは6月28日の記載がある)1SH、島 茂雄氏によって起草された上記電文が世界に発信されJARLの創立が宣言された。この電文はまたたくうちに世界に伝わりJARLの歴史が始まった。
 日本で初めてアマチュアによる無線交信が神戸、大阪間で成功したのとほぼ時を同じくして1925(大正14)年11月1日上野、神田間の国電(当時は省線)が開通し、われわれに馴染みの秋葉原駅が営業を開始した。それまでは上野、秋葉原間は地上を走る貨物線であり秋葉原駅も貨物専用駅だった。

 さて、またたく間に全世界に広まったJARL結成の知らせは、アメリカの無線雑誌として著名な「QST」誌8月号にニュースとして取り上げられ、それを輸入していた逓信省(その後の郵政省、現在の総務省)は、このニュースを見て驚いた。日本にはまだアマチュア無線というものを許していないのに、JARLという組織が結成されて、実際に電波を使って世界に宣言している。当時の常識からすれば異質の文化が導入された驚きは、逓信省内部でも相当なものだったようだ。この時初めてアマチュア無線という文化に触れた逓信省は、その後、昭和25年(1950年)電波法が公布されたが、真のアマチュア無線の意味を理解するまで実に25年の歳月を要したのである。

 この記事によって大阪逓信局に相次いで出頭を命じられた3WW、谷川 譲氏、3AA、笠原功一氏は事情聴取されているが、当局も時代の流れを察知して、その10月からは密かに短波実験局出願に対する通達をだして、その基準を設けている。この時に東西5名ほどが実験局の出願を行っている。

 この通達によって動き出した当局は、1927(昭和2)年3月1日に、1926(大正15)年8月4日付けで東京逓信局に出されていたJLYB、有坂磐雄氏、JLZB楠本哲英氏の2局に免許を下付した。ちなみに、許可された使用周波数は38mに限るものであった。

 少し断らなければならないが、日本最初の素人無線実験局となった有坂氏はJARL盟員であったが、当時海軍大尉であったこともあり、その頃のJARLの人たちはJLYBをアマチュア局として認めていなかったような記述もある。しかし、本人の証言によれば、「海軍と言う特殊な立場で免許を得た訳ではなく、第1号なので慎重に行動するように当局から言われた。」とある。一方のJLZB楠本氏は、逓信省の役人で、監視のための局だったことが明らかにされているので、アマチュア局とは認められていない。
 それでは日本のアマチュア無線第一号は誰かと言えばこの少し後に許可された草間貫吉氏である。

 このような背景で誕生したのがJARLで、幾多の変遷を遂げて現在に至ってる。JARLは今日までそれぞれの時代を生き抜いてきたわけだが、最大時会員19万人を擁し数の力を最大武器にしていたJARLは余りにも進歩の早い通信技術の発展の中で創世記の創造性や工夫を取り入れることなく徐々に力を落としているように見える。
これらは数値的な検証を加えると否定できない現実でありその原因についても見極めることも出来ないくらいになっている。